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【再掲】 私が経験した “吉井川” の洪水


こんにちは。 「鶴見陶苑」です。
いつも当ブログにご来訪頂き、ありがとうございます。

さてこの記事は、2年半前 “ヤフーブログ” に投稿した内容の 【再掲】 です。
 ・2016/12/29 http://blogs.yahoo.co.jp/katatetu_kichigahara/14874071.html

先日入手しました “柵原町史” を元に柵原町に関する記事をアップして行くに当り、私の中学校時代を外すことが出来ませんので敢えて 【再掲】 いたします。


夏になると今でもよく思い出すことがあります。

●【昭和38年7月洪水 (梅雨前線)】●
岩戸流量 5,600m3/s 全壊流失40戸 床上浸水4,501戸、床下浸水375戸
死者・行方不明者2名

昭和38年 (1963年) 7月11日、私は “吉岡中学校” 3年生でした。
奇しくもその日は1学期の期末テスト最終日です。
朝から降っていた雨が物凄い “集中豪雨” となってしまいました。

休憩時間に “吉井川” が見える棟の廊下に行って見ていると川の流れが見る見る増し、県道を乗り超え校舎下の民家を飲み込んでしまいました。
そして2mほど浸かったところで大音響とともに民家が流失してしまったのです。

2015年、鬼怒川下流域で堤防が決壊し、家屋が流失するという甚大な被害が出ましたね。 あれほど酷くはありませんでしたが、家屋が流失する光景は強烈な印象として今でも私の脳裏に残っています。

さてテストが終わり下校時間。
雨は止んでいましたが、濁流にのまれた県道は各所で寸断され帰ることが出来ません。 私は自転車通学でしたが、学校の指示で山道の迂回路を通って徒歩での来宅。

夫々の地区ごとに隊列を組み帰宅するまで山道を約1.5時間ほど歩きました。
084-0-洪水被害地域

国土地理院の “空中写真” にマークした
“赤線” が “洪水迂回ルート”
“青線” は1・3年生で通った “本校通学ルート”
“緑線” は2年生の折通った “分校通学ルート”
薄い青の着色した部分が洪水による浸水被害に遭ったところです。

町並み等の写真は “グーグルのストリートビュー” を使用しています。

今まで通ったことが無い尾根沿いの道でしたが、大勢で通るので楽しかったです。
“高城” 地区を抜け山道を下り“藤原”地区に入り “藤原橋” を渡る時は濁流が “吉井川” 中央部で盛り上がりゴウゴウと音をたてていてとても怖かったですね。

あくる日は学校が休みでしたが、良い天候でしたので徒歩で中学校まで自転車を取りに行きました。 勿論川の水は濁ってはいますが嘘みたいに引いていました。


●“空中写真” <※2地点>、幅2mぐらいの “吊り橋” が掛かっていましたが、洪水で完全に流出していました。 (現在はコンクリート橋になっていますね)
その “吊り橋” の横に同級生の実家が経営する “木工家具工場” がありましたが、濁流にのまれ建物が半壊していました。
中学2年生の時は “分校” 通学でしたから、この “吊り橋” を渡り “柵原” から “下谷” へ通学していましたよ。
084-2-柵原-藤原・吊り橋

●“空中写真” <※3地点>、昔から “徳善淵” と言われていたところです。
今は道路がかさ上げ・改修されて緩やかなカーブになっていますね。

50数年前は、地道 (未舗装) であることは勿論山肌にへばり付く様な幅6mほどの道路で “久木” の端から “藤原” までのクネクネと曲がった薄気味の悪い道路でしたよ。 

その “徳善淵” の道路が濁流に削り取られ、完全になくなっていました。
山肌の岩がむき出しになった (海岸の岩の様な有様) 上を飛び越して “久木” に向かいました。

直ぐに中学校が夏休みに入りましたので “徳善淵” の復旧具合は知りません。
084-3-とくぜん淵

この “吉井川右岸” ルートには、“国鉄・津山駅”~“片上鉄道・吉ヶ原駅” まで “中鉄バス” が運行されていましたが、“徳善淵” が不通のため暫くの間 “昭和橋” を渡り “柵原” を経由して “吉井川左岸” を “吉ヶ原” まで走りましたよ。

●“空中写真” <※1地点>、“久木” の町並みは一変していましたね。
“吉井川” 沿いに商店が並んでいましたが、どの家屋も土壁が高さ1.5mほど無くなっていて “竹小舞” (土壁芯材の竹網) が無残にも露出していました。
道路には土砂が10cmほど積もっていましたよ。
084-1-久木の町並み

その “久木” には同級生の実家である''' “昭和堂” '''という “製パン・菓子店舗” がありましたが、ここも完全に濁流に洗われ壁が落ちていました。
柵原町内の給食パンは “昭和堂” 製の “コッペパン” でしたよ。 小1~中3まで食べましたね。
後に “柵原鉱山” に因んだ “石の華” と言う和菓子が発売され好評を博しています。
 ・昭和堂・“石の華” https://tabelog.com/okayama/A3301/A330103/33004237/dtlrvwlst/B410878757/?lid=unpickup_review
中学校からは自転車で “柵原” (吉井川左岸) 廻りで帰宅しました。 

●“空中写真” <※4地点>、“吉井川左岸” には “吉ヶ原” に入る前 “火の谷隧道” があります。
子供の頃、夏にはひんやりとして涼しかったのでよく遊びに行きました。
084-4-火の谷隧道


この水害の他、記憶にあるのは高校2年生の時の洪水です。
■【昭和40年7月洪水 (梅雨前線)】
岩戸流量 4,000m3/s 被災家屋 4,126戸 死者・行方不明者5名

この時は “片上鉄道” での通学でした。
下校時、“吉井川第一鉄橋” (備前福田~塩田間) と “吉井川第二鉄橋” (周匝~美作飯岡) を渡る時、濁流がゴウゴウと流れメッチャ怖かったですよ。

●因みに “岩戸” とは、天瀬~益原間にあり “田原井堰” があります。
“吉井川” の主要流量測定地点だと思います。
084-6-岩戸


幼少期から “吉井川” の洪水は何回か経験しましたが、昭和38年の水害が私の一番の記憶に残っています。

昭和47年に “柵原鉱山” の大規模な “人員整理” があり、母が大阪の私の元に出て来ましたので、故郷が無くなってしまいそれ以後の “水害” については知りません。

ネットで調べますと・・・
●昭和54 (1979) 年10月19日、台風20号水害
●平成10 (1998) 年10月18日、台風10号水害⇒“吉井川” 戦後最大の水害
があったようですが、詳しくは知りません。

ただそれを契機として “県道26号線” の嵩上げ改修工事、“昭和橋”・“藤原橋” の架け替え工事が行われたのではないかと推察されます。

長々とお付き合い頂きありがとうございました。


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コメント

柵原の郷土史を調べています。

はじめまして。津山の赤坂と申します。柵原地区について大変興味深く拝見させていただきました。
一つお尋ねしたいのですが、昔、久木の昭和橋の西詰、吉井川沿いにたくさんの家や店があったようなんですが、どんな店があったかご存じでしょうか。今、古い写真集を作っていて、昭和橋の写真も掲載する予定なんです。よろしければお教えください。
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