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「柵原病院」・「吉ヶ原診療所」そして「Y病院」





お早うございます。 「鶴見陶苑」です。
いつも当ブログにご来訪頂き、ありがとうございます。


“柵原鉱山” が経営する総合病院として “美作地区” において24年間に渡り地域医療に多大な貢献をしてきた “柵原病院”!
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● 私が “吉ヶ原小学校” に入学する前年、昭和29 (1954) 年1月20日開院。
開院を一週間ほど前にして当家と何家族とが病院内を見学させてくれました。
多分知り合いの方が守衛をしていたのだと思います。 勿論夜でした。
田舎の子には見たこともないピカピカの医療機器のある色んな部屋を見学させてくれたのです。 65年前の事ですが今でもその光景を思い出しますよ。
開院後 “柵原病院” を利用したのは “歯科” と “耳鼻咽喉科” でした。
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● “柵原鉱山顕彰誌” よると “柵原病院” 開院前は “柵原鉱山付属病院” との名称で “久木下” にあったとのこと。
“K 君” から頂いた写真にありました。 吉岡中学生の頃、通学のため前を通る度に労組の事務所が 「門付きの建物で立派やな~」 と思っていました。
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● “吉ヶ原地区” には “吉ヶ原供給所” と鉱山の “理髪店” の中間に “吉ヶ原診療所” がありましたが、名称が “診療所” だったかどうかは分かりません。
3・4才上の悪ガキが頭の皮が剝けて治療してもらっていたのをよく覚えています。 昔は皆が坊主頭でしたし木登り中に落下して頭の怪我をする子が多かったです。
昔は病院で “赤チン” をシッカリ塗りましたね~。 傷には “赤チン” がよく効くんですよ。 私は今でもネットで “赤チン” を買いますからね~、ドラッグストアでは売ってません!
■ ところで “藤原地区” には “診療所” があったんでしょうか?! それとも “久木” の “柵原鉱山付属病院” の範疇だったんでしょうか!
“久木”・“藤原”・“吉ヶ原” 3地区の中では人口が一番多かったですからね~

● そこの “医師” が “Y 先生” でした。
ご子息が私と同い年でしたからお宅に行って遊んだことがありました。 当家社宅と同じ通りでしたから時々遊びに行ったんでしょうね。
お家は “診療所” の隣にありましたが、並の社宅よりも部屋数が多かったのを覚えています。
● “柵原病院開院” で “診療所” は無くなり社宅に改装されました。 改装後 “診療所” 側は “2K” の大きさの社宅に、お宅の方は広いので多人数家族が入居してました。
その “Y 先生”、嘱託を辞められたのかどうか “吉ヶ原” の町の中 (当家から100mそこそこのところ) に “Y 病院” を開院されました。 ご家族は “周匝” に帰られていました。

● 病院は “黄色矢印” のところです。
“周匝” のご出身で “周匝” でも “Y 病院” を開院されていた (?) のでしょうか!
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65年後の現在、“診療所” 跡の社宅建物は “スーパーひとみ” の倉庫か事務所になっている様です。

・“Y 先生” は “吉ヶ原小学校” の “校医” もされていました。
優しくて気さくな先生で人気があり病院は何時も混んでいました。

・私が小学2年生の時でしたか、“おたふく風邪” で高熱を出し寝込んだ時目を覚ますと “Y 先生” が枕元にいらっしゃいました。

・小学校3年ぐらいの時には背中に大きなオデキが出来た時、授業中に呼び出され職員室に行くと “Y 先生” がいらっしゃって丸椅子でお尻を出し “ペニシリン” を注射してもらいました。 お袋が会社から “Y 先生” に電話したんだと思います。

・中学1年生の時には足の小指を怪我して拗らせ “表層炎” になった時は “Y 病院” で手術していただきました。 手術は麻酔がかかっていますからどうも有りませんが、後日傷に埋め込んだガーゼの入れ替えで取る時はチクッとするだけですが、先がスクリュータイプのステンレス棒でガーゼを押し込む時メッチャ痛いんです。
看護師さんがちょっと触れただけで足を思い切り引いてしまい大笑いされた (私は照れ笑いですが) ことがありました。 看護師さんは知り合いのお姉さんだった様な・・・

・和気高校に入学し、“周匝・吉井中学” 出身の同期生に聞きましたらご子息は東京の私学高校へ行ったとのこと。 それはそうですよね病院の跡継ぎですからね~

・祖父が肺炎で亡くなった時も “Y 先生” に臨終を看取っていただきました。
昭和47年の事でしたからその時は “Y 病院” があったんですね~

同じく昭和47年 (1972年) 11月には鉱山のリストラでお袋が “吉ヶ原” を引き払い “大阪” の私の元に来ましたから、“故郷” が無くなってしまいそれ以後は “柵原” のことは分かりません・・・


【参考】 柵原鉱山の「久木・藤原・吉ヶ原」社宅群
 ・2021/02/14 https://bonsainikki313.blog.fc2.com/blog-entry-745.html

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コメント

No title

おはようございます 
 65年後の閉山後の現在 さびれてきていますね  現在どこの山間地域も限界集落となりさびれてきています 当県の小中高は私の現職のころは500校以上あったのに 現在300校あまりになりました ほとんど山間地で無くなりましたからね 過って県の僻地教育研究会長をしていた時 学校の8割方を網羅していていましたが30年後の現在は5割にならないでしょう

No title

こんばんは。
地域医療の中核となる病院まで、鉱山が経営していたんですね。
往事の賑わい、閉山後の寂しさ。
うちもかつての基幹産業が廃れ、町ごと沈下したような町なので、何となく雰囲気は分かる気がします。
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