柵原鉱山の「久木・藤原・吉ヶ原」社宅群
お早うございます。 「鶴見陶苑」です。
いつも当ブログにご来訪頂き、ありがとうございます。
今回は “柵原町” に建設された “柵原鉱山” の “社宅群” を取り上げます。
●1枚目写真は、1964年 (昭和39年) の “国土地理院・空中写真” に私が鉱山施設・社宅等描き込み色づけしたものです。
2枚目写真が加工前の “国土地理院・空中写真” ですが、写真から推測すると既に “山の手社宅” は解体された跡が見られ “更地” になっていたものと思われます。
●下記の数字はこの “空中写真” から “社宅” の戸数を数え上げたものです。
・「柵原社宅」 戸数不明 (柵原地区は分りません)
・「久木上社宅」 戸数不明 (ここも分りません)
・「久木下社宅」 32戸
・「奥ノ谷社宅」 119戸
・「藤原社宅」 259戸 (「山の手社宅」以外の社宅・役職者社宅を含む)
・「山の手社宅」 112戸
・「吉ヶ原社宅」 (木造) 272戸
・「吉ヶ原社宅」 (CB造) 132戸 (木造+CB造・計404戸)
以上の戸数は読み取った数ですので実数とは隔たりがあると思います。
5年間で “山の手社宅” の112戸がすっぽりと “藤原地区” からなくなり “吉ヶ原地区” (ばかりではないでしょうが) に移ったのですから凄いですね~


●写真3枚目は、“柵原鉱山顕彰誌”より “社宅” 戸数及び “山の手社宅” と “藤原社宅” です。
これによると終戦の年・昭和20年年末には既に510戸の “社宅” があり昭和29年年末には累計989戸の “社宅” が建設されていたようです。

●写真4枚目をご覧ください。
私が誕生~高校卒業まで住んでいた “吉ヶ原社宅” の平面図を描いてみました。
一般社員用社宅の基本的な構造で 「6畳・4.5畳・台所3.5畳」 が主でした。
今でいう “2K” でしたが本間 (ほんけん) でしたから広かったですよ。 現代の家屋は殆どが “五八間” (ごはちま) ですから狭いですよね。 当家は「六軒長屋」でしたが、「八軒長屋」 もありました。
役職が付けば部屋数も増え 「二戸一」 の木造社宅に移ることが出来ました。
ただし木造社宅のトイレは 「汲み取り式」 です。
“藤原地区” の課長・部長級役職者社宅は一戸建て木造でしたが “水洗トイレ” でした。



●“一般社宅” は私が小学校1年ぐらいの時に大きく改造されました。 改造前は台所が土間で木戸でしたから薄暗かったです。 炊飯は “かまど” (写真5枚目) 炊きでした。
改造は玄関の木戸がガラス戸に交換され土間がなくなりフローリング床になりました。 ただ改造後も電気炊飯器が普及するまでは暫くは板の間に二連の “かまど” が置かれていました。
改造後、米糠を入れた袋でフローリングを磨くことが社宅中で流行りましたよ。
写真6枚目は木造社宅の適当な写真が無いので、祖父が写っているこの写真をアップしますがそこそこ整った社宅でしょう。 結構広い道路で仕切られた社宅が何列も並んでいたんです。
●「二戸一」 の役職者木造社宅には “風呂” が付いていました。 薪は鉱山の支給です。
写真7枚目、“風呂” の無い社宅は結構大きな銭湯タイプの “共同浴場” がありました (私が大阪に出て銭湯に行った時、銭湯が狭かったですからね~)。 勿論社員家族は無料です。
昔は鉱山従業員以外の方も無料でしたが、私が高校生ぐらいになった時に有料化されました。

●写真8枚目、“柵原鉱山顕彰誌” から “福利厚生施設で昭和30年代に新設されたもの” によると昭和31年から5年間にわたり “吉ヶ原地区” において “CB造2階建て” の一般社員用社宅が建設されました。

●写真9枚目は最初に建設された “CB造2階建て” です。 勿論 “水洗トイレ” です。
このCB造社宅には、“吉ヶ原地区” の方も入居しましたが、主として “藤原地区” からの転居組が多かったです。
斜面に造られ住み難かった “山の手社宅” に居た多くの方が “吉ヶ原CB造社宅” に転居されたのではないかと思います。
私が小学校2年ぐらいから “久木小学校” からの “転校生” が随分増えて行きました。 勿論CB造社宅への転居です。
但し “CB造2階建て社宅” には風呂が付いていませんでしたので “共同浴場” でした。

●転居には高校の “学区” が絡んでいたことも見逃せません。
“吉ヶ原地区” は “和気高校” の “学区” でしたが、“藤原地区” は津山学区でしたので “和気高校” には行けず “津山高校” か “周匝” の “備作高校” (2007年廃校) でした。
“備作高校” は創立時周匝村外8ヶ村の組合立で “定時制” でした。 昭和37年には県立・全日制になりましたがやや人気がありませんでした。
“津山高校” はかなりハイクラスでしたので簡単には入れない高校でした。 そんなこんなで “和気高校学区” の “吉ヶ原地区” への転居が進んだものと思われます。
●昭和33年には本経寺の西側辺りに “CB造平屋社宅” が4戸建設されています。 入居者は部長級役職者で “東京本社” からの転勤組でした。 同期生が2人いました。 女子転校生は流石に垢抜けしていましたね~
●写真10枚目 (表)
“柵原鉱山顕彰誌” から 「柵原町人口・小中学校生徒数」
●写真11枚目 (表)
“柵原鉱山顕彰誌” から 「柵原鉱山従業員数 (大正5年~平成3年)」
●写真12枚目 (表)
“柵原鉱山顕彰誌” から 「柵原鉱山硫化鉄鉱・選鉱生産量」



着色した部分は私が “柵原” に居た年代です。
丁度 “柵原鉱山” の最盛期に居たことになります。 生まれ育った我が故郷 “柵原町”、多くの人たちと過ごした “柵原町”、素晴らしい年代に育った事を嬉しく思っています。

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コメント
村ポチです!
2021/02/14 07:22 by たくみ URL 編集
No title
お祖父様が写った画像。
本当に整然とした町並みが分かりますね。
計画されて作られた町なんだということが見て取れます。
また東京本社からの転校生。
今よりも東京と地方とでは差があった時代かと思います。勝手にアイドルみたいな子がやって来たところを想像しました。
また鶴見陶苑さんは図面も引けるのですね!
鉢の指図書書ける訳ですね^^
2021/02/14 20:50 by 潮風 URL 編集